???「眼下にはシアトルの町の灯。頭上の空には燦く光」
タイトルはかっこいいですね。
『天の光は全て星』ですよ。
原題は『 THE LIGHTS IN THE SKY ARE STARS 』です。
1953年に出版された SF の古典小説ですが、
70年ぐらい経っても真新しさがありますね^ー^
主人公・マックス・アンドルーズは、ロケットに乗って宇宙に行ったことは一度もなく、
金星や火星、月へ行ったと思い込んでいる人間だったという話です^ー^
自分にいいきかせているうちに本当のことだと信じてしまったんですね。
神秘主義のエムバッチのくだりから、
人間は誰しもが「星屑」であり、
宇宙に行けることがわかります。
本来、21世紀は 2001 年からなのに、
2000年が21世紀だという記述があります。
「二〇〇〇年だよ」とかれは言った。
「紀元二〇〇〇年だ」
新しい千年の始まりだ、とわたしは再び一人になってから思った。
第二十一世紀、三度目の千年の始まり。
マサイ族は消滅してしまったという記述もありますね。
架空の2000年ですから。
チャン・エムバッシは、一九六〇年代の末まで赤道アフリカ東部に住んでいたマサイ族という部族の最後の生残りだ。
すくなくとも、そう信じられている。
今日すでにその種族は現地に行っても見ることはできない。
エムバッシのほか、残らず死んでしまったのだ。
『天の光は全て星』の名言はこれらかな?
今後二、三世紀かけて、人々がさかんに種の進化の原理の自己適用につとめるように教育すれば、肉体的にも精神的にも、人類が退歩することは絶対にない。
人類はいよいよ強く、いよいよ賢くなって、ついには神様になる。
というよりむしろ、これくらい神にちかくなりたいと自分で望むだけ神に近づく。
あんまり神様みたいになったんじゃ退屈でやりきれないから、すこしは悪魔の名残りも自分の中に残しておいたほうがいいだろう。
エレン、人間はきっと星にたどり着くぜ。どうしても他に方法がなければ、光より遅いスピードの宇宙船に乗って、
親が死ねば子、子が死ねば孫がかわって操縦しながら、あるいは道中に幾世紀かかろうとも死にもせず年とりもしない仮死状態に自らをおく方法でも発明して。
しかし、そんなことをしなくてもいい、もっといい方法をきっとみつけ出すにちがいない。
そうだ、脱出だ。このちっぽけな世界から、誰もかも脱出したくてうずうずしている。
その願望こそ、肉体的な欲望を満たす以外の方向にむかって人間がやってきたことすべての原動力にほかならないのだ。
それはさまざまの形をとり、さまざまの方向にむかって発散されてきた。
それは芸術となり、宗教となり、苦行となり、占星術となり、舞踊となり、飲酒となり、詩となり、狂気となった。
これまでの脱出はそういう方向をとってきた。
というのは、本当の脱出の方向を人間たちはつい最近まで知らなかったからだ。
その方向とは?――外へ! この小さな、平べったい、いや、丸いかも知れないけれども、とにかく生れついて死ぬまでへばりついていなければならない地面を離れて、未知に、永遠にむかって。外へ! 太陽系の中の塵の一片、宇宙の一原子に過ぎないちっぽけな地球から、外へ!
わたしははるか未来のことをあれこれと想像してみた。今わたしがどれほど奇抜な想像をしてみたところで、そんなもの、遠い未来にはきっとおそろしく古臭い思いつきとして笑いとばされてしまうだろう、と。
不老不死術だって? そんなものは百九十世紀に発明されて、二百三十世紀には誰もかえりみなくなっちまったよ。
そんなもの必要なくなったからだ。宇宙を再構成するための逆行熱力学だって? そいつももう時代おくれだ。
なにしろ今じゃノラニズムと四次元空間同時再構成の法則が応用できるようになっているんだから。
ばかな! と言うか? それじゃ、きこう。今の人間先祖のネアンデルタール人に、物質のエネルギー移行とか量子とかいう考えを押しつけることができると思うか?
今から十万年後のわたしたちの子孫から見たら、ちょうどわたしたちは今わたしたちの目から見たネアンデルタール人みたいなものさ。
なに? 星だって? もちろん、星なんかとっくに自分のものにしているとも。
そして、最後のセリフを読むとモイ泣きします。
息づまる闇の中でわたしはそのロケットと、おまえと、人類とその未来と、
そしてもし人間が神になる前から神というものがあるとしたら、
その神に対して、言い知れぬ畏れに全身をひたされている……