田中康夫著『なんとなく、クリスタル』

???「クリスタルなのよ、きっと生活が。なにも悩みなんて、ありゃしないし……」

???「いつも、二人のまわりには、クリスタルなアトモスフィアが漂っていた」

???「もともと私は多消費型の人だったから、そんなに余裕があるという方でもなかった。だからモデルの仕事は私にとって、結構魅力だった」

 

田中康夫は長野県の知事をやっていて、

「鉄製のガードレールを木に変える」なんて言っていたらしいです。

鉄より木のほうがコストがかかりますから、

長野県民からは批判されていたらしいですね^ー^

 

そんな田中康夫が書いた『なんとなく、クリスタル』ですが、

ポストモダンであって、

最近の言葉でいうなら、City Pop なわけです。

この本の特徴は、小説でありながらも、

作者の視点による注釈が多いです。

80年代の風俗や世相を知る、資料としても使えるでしょう。

ハードカバーのほうは巻末に注釈あるので、

いちいち見返さないといけません^ー^

1981年に発行された本ですが、

1年で49回も刷られてます。

ベストセラーだったんでしょうね。

水色と白色のしおりヒモがついています。

『なんとなく、クリスタル』のあらすじ

主人公の由利は、

青山学院大学(青学)に通う帰国子女の読書家な女学生でありながらも、

モデルの仕事をし、月収にして40万ほどあります。

1留の彼ピ・淳一がいて、

そのカレもスタジオミュージシャンとしてブイブイいわせています。

カネもあり時間もある彼女は、遊びかたが上手です。

たとえば……、

「千駄木まで一枚の千代紙を買いに行く。その気力を大切にしたかった。クレージョの夏物セーターを、クレージュのマークのついた紙袋に入れてもらう。そのスノッバリーを大切にしたかった。甘いケーキにならエスプレッソもいいけど、たまにはフランス流に白ワインで食べてみる。そのきどりを大切にしたかった。普段はハマトラやスポーティでも、パーティにはグレースなワンンピースを着て出てみる。その遊びを大切にしたかった。高輪に行ったら東禅寺を訪れてみる。南麻布へ行ったら光林寺を訪れてみる。その余裕を大切にしたかった。こうしたバランス感覚をもったうえで、私は生活を楽しんでみたかった。同じものを買うなら、気分がいい方を選んでみたかった

「無意識のうちに、なんとなく気分のいい方を選んでみると、今の私の生活になっていた」

「モデルのしごとは、アイデンティティーを考える必要がないからだった。“なんとなく気分の良い生活”をするために、自由になるお金を得ようとう思ってモデルになった直美や私とは、もとから違う気がしてくる」

俺っちの持論に「向いていることは、たいして努力しなくてもできるようになる」というものがあります。

由利も、とくに何も考えず、なんとなく生きているだけで、

最善の選択をし、なんとなく良い生活ができているわけです。

そんな、クリスタルな生きかたが、きらめいていますね。

 

ブランドなど記号にすぎないという考えかたは、

1980年代としてはかなり前衛的だったのでは?

「ブランドにこだわるなんてことは、バニティーなのかな、と考えてしまう。でも、それで気分がよくなるならいいじゃないか、とも思えてくる」

学生というと、もういないのかもしれませんけど、

苦学生とか、とにかくカネがないですよね。

淳一と由利にはそれがない。

カネを持ちながらも時間もあるんです。

インターネットがないバブルな時代ですけど、

当時では華やかな最高クラスといえる生活でしょう。

また、由利は束縛しません。

すごく、フレキシブルで、

まるで、今の若者みたいな柔軟な思考を持っています。

「淳一と私には、おたがいに仕事があった。経済的に、自立している状態だった。だから、私たちは、一人前の社会人であるともいえた。とはいっても、同時に、学生という、社会に出る前の身分も持ち合わせていた。モデルの仕事は、楽しいものだった。学校では知り合えない、多くの友達が、そこにはいた。そして、学校へ行けば、行ったで、多くの愉快な連中がいた。でも、それだけ多くの友だちがいても、一人になると、急にアイデンティーを、一体、どこへ置いたらいいか、わからなくなることがあった。そうした時に、そばにいて離れていかないものが欲しかった。心を許し合えるものが欲しかった。私たちにとっては、それがおたがいに対して望んでいることだった。私のアイデンティティーは、それをモデル・クラブに求めることも、求めようと思えば、できないことではなかった。淳一にしても、グループやスタジオ、大学に求めることができた。でも、私たちにはお互いの存在の方が、より大きなアイデンティティーとすることができた」

「おたがいを、必要以上に束縛し合わずに一緒にいられるのも、考えてみれば、経済的な生活力おたがいに備えているからなのだった。淳一によってしか与えられない歓びを知った今でも、彼のコントロール下に、“従属”ではなく、“所属”していられるのも、ただ唯一、私がモデルをやっていたからかもしれなかった」

親友や友情、友だちなんかもそうですよね。

そうしたものはメディアがつくりあげた幻想なのに、

互いに友だちだと確認しあうことで友だちだと思い込んでいます。

「結局、おままごと遊びなのね、私たちの世代の恋愛って。おたがいに、好きです、好きですって言いあって、おままごとをしているのよ」

そして、物語の終わりではこう綴られています。

「淳一と私は、なにも悩みなんてなく暮らしている。なんとなく気分のよいものを、買ったり、着たり、食べたりする。そして、なんとなく気分のよい音楽を聴いて、なんとなく気分のよりところへ散歩をしに行ったり、遊びに行ったりする。二人が一緒になると、なんとなく気分のいい、クリスタルな生き方ができそうだった。だから、これから十年たった時にも、私は淳一と一緒でありたかった。その時、淳一は、どんなミュージシャンになっているだろうか。単なるキーボード奏者としてだけでなく、アレンジャーとしても、プロデューサーとしても、一流の仕事ができる人になっていてほしい」

 

「私は、まだモデルを続けているだろうか。三十代になっても、仕事のできるモデルになっていたい。〈三十代になった時、シャネルのスーツが似合う雰囲気をもった女性になりたい〉私は、明治通りとの交差点を通り過ぎて、上り坂となった表参道を走り続ける」

 

まあ、由利のいう時代にはならなかったけどな^ー^

由利がいう「三十代になった時、シャネルのスーツが似合う雰囲気をもった女性になりたい」時代は来ねえよ^ー^

 

脚注の最後にですね、こう載っています。

少子高齢化の資料ですね。

暗澹とした時代が来ることを予見してるかのようですね^ー^

「三十代になった時、シャネルのスーツが似合う雰囲気をもった女性になりたい」のアンサーというべきでしょうか。

オチまで見事です。

ちなみに『33年後のなんとなく、クリスタル』という続編があります。

俺っちは読みませんが^ー^

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